東京地方裁判所 平成元年(行ウ)99号 判決 1991年4月23日
原告
庭山邦子
被告
東京都人事委員会
右代表者委員長
舩橋俊通
右訴訟代理人弁護士
浜田脩
右指定代理人
田中庸夫
同
横溝浩
主文
一 原告の請求を棄却する。
二 訴訟費用は原告の負担とする。
事実及び理由
第一請求
被告が昭和六一年(行)第五号事件につき平成元年二月八日付けでなした「要求事項(1)ア及びイはいずれも認めることができない。」及び「要求事項(2)ア及びイはいずれも取り上げることができない。」旨の判定を取り消す。
第二事案の概要
一争いのない事実等
1(原告の措置要求と被告の判定)
(一) 原告は、東京都衛生研究所(以下、「衛生研究所」という。)の一般職員(主事)であるが、被告に対し昭和六一年七月一一日付け書面で、次の要求を掲げて措置を求めた(昭和六一年(行)第五号事案。以下、「本件措置要求」という。)。
(1)ア 衛生研究所に、換気系統が他の室とまったく異なる喫煙室又は喫煙場所を設置すること。
イ 右アの措置が実現するまで、原告に衛生研究所の他の職員が日常使用しているものと同等の条件、設備の整った執務室(実験室及び控え室)を提供すること。
(2)ア 喫煙による被害を受けない場所へ異動する場合、他の職員の場合と同等の職務遂行上の条件、待遇とすること。
イ 措置要求を提出している期間中、命令権者の一方的な命令権の行使で原告が不利な状態におかれることを未然に防止する条例あるいは規則の改善をすること。
(二) 被告は、原告の右措置要求につき、平成元年二月八日付けで「要求事項(1)ア及びイは、いずれも認めることができない。要求事項(2)ア及びイは、いずれも取り上げることができない。」旨の判定(以下、「本件判定」という。)をした。本件判定の具体的内容は別紙(一)のとおりである。
2 (本件判定に至る経緯、事情)
(一) 原告は、本件措置要求に先立ち、昭和五八年九月に被告に対し、「(1)嫌煙者が在席する事務室及び研究室では、勤務時間中禁煙とすること、休憩時間及び休息時間における喫煙は定められた場所で行うこと、(2)図書室、洗面所、エレベーター内及び廊下は禁煙とすること、また、食事をする所では、換気扇の傍らを喫煙席とし、その他の箇所では禁煙とすること、(3)嫌煙者の加わる公的なミーティング等の場合には、換気の良好なときを除き、原則として禁煙とすること、(4)上記以外の場所においても、喫煙する場合には換気に注意すること、(5)半年毎に(1)ないし(4)の実態を調査し、これらの事項が実行されずトラブルが生じている場合には、喫煙室を設置すること」を要求事項とする措置要求(以下、「前回の措置要求」という。)をし、被告は、昭和六〇年五月二二日、衛生研究所長が、「(1)同研究所事務室において浮遊粉じん量並びに一酸化炭素及び炭酸ガスの含有率が事務所衛生基準規則(昭和四七年労働省令第四三号)第五条第一項の規定に適合しない場合には、換気を強化するなどして、この規定に適合するよう措置すること、また、同研究所の研究室においてもこれに準ずること、(2)同研究所の研究室(控え室又は準備室を備えたもので、当該控え室又は準備室を除いた部分に限る。(3)において同じ。)及び図書閲覧室は禁煙とするよう措置すること、(3)同研究所の研究室、図書閲覧室、洗面所、エレベーター内、廊下、その他禁煙と定められている室については、禁煙である旨をステッカー等で明示するなどして、禁煙が遵守されるよう措置すること、(4)喫煙をする職員が禁煙とされていない室で喫煙をしない職員と同席する場合は、喫煙が健康に及ぼす影響について十分認識し、喫煙をしない職員に配慮するように、職員の自覚を促す措置をとること」が必要であると認める判定(以下、「昭和六〇年五月二二日付け判定」という。)をし、同日付けで衛生研究所長に対して右判定の趣旨を実現するように勧告した。右判定の具体的内容は別紙(二)のとおりである。
(二) 右勧告の後、衛生研究所は、次のような措置をとった。
衛生研究所長は、昭和六〇年五月二二日付け判定に基づく右勧告後、同年六月二一日付けで、別紙(一)添付の別紙1の「所内における喫煙について」(以下、「所長通知」という。)及び別紙2の「『所内における喫煙について』の運用について」(以下、「所長決定」という。)を定めた。そして、所内には換気扇一五台が新設され、ステッカー(禁煙表示プレート)二〇三枚が貼付された。さらに、昭和六〇年八月以降、衛生研究所は年二回定期的に所内の環境調査を作為的条件を設定しないで行うようになった。昭和六二年七月ないし同年八月の右調査結果によると、事務所衛生基準規則に定める基準を超えた値が測定されたのは一箇所にとどまった。
(三) 原告の東京都衛生研究所勤務歴は次のとおりであり、原告が受動喫煙の被害を特に強調しているのは、生活科学部乳肉衛生研究科食肉魚介細菌担当であった昭和五七年六月から昭和五八年三月までの期間、昭和六〇年四月からの微生物部細菌第一科腸内細菌室への異動とこれに続く食中毒担当となってからの期間である。
原告は、昭和四五年四月衛生検査職種の職員として東京都に採用され、当時衛生研究所栄養部食品分析研究室(その後、組織改組により生活科学部栄養研究科食品分析担当)に配属された後、乳肉衛生部乳研究室(同様にして生活科学部乳肉衛生研究科乳分析担当)、生活科学部乳肉衛生研究科食肉魚介細菌担当、同科中央機器室、同科食肉魚介細菌担当(ただし、原告は、中央機器室から食肉魚介細菌担当に戻るように命ぜられた際東京都知事等に請願書を提出し、実際には部屋を移らなかったことが窺われる。)を経て、昭和六〇年四月微生物部細菌第一科腸内細菌担当となり、昭和六一年六月同科食中毒担当となっている(<証拠>)。
(四) 原告は、昭和六一年六月当初から、衛生研究所二号館六一七号室を控え室として、また、五一九号室を実験室として、それぞれ使用している。これらの執務室にはいずれも屋外への窓はない。
(五) 衛生研究所の建物内の空気環境に関する法的規制は、事務所衛生基準規則(昭和四七年労働省令第四三号)によるものであり、建築物における衛生的環境の確保に関する法律(昭和四五年法律第二〇号。以下「ビル管理法」ということがある。)の適用はない。
(六) 平成三年四月に東京都新宿区に移転する東京都庁の新庁舎は分煙化(喫煙室が設置され、その余の室等は原則として禁煙とされる方式)されている。
(七) 衛生研究所の換気設備は、中央管理方式の空気調和設備(集中換気方式)である。
(八) 衛生研究所の建物については、改築が予定されており、その完成予定時期は平成九年ないし平成一〇年とされている。
二争点
1 原告の主張
本件判定は次の点から違法である。
(一) 本件判定は、以下の事情を総合すれば、裁量権の行使に問題があり、違法である。
(1)①(受動喫煙)
喫煙者の周囲にいる者は、自ら喫煙しなくても、発癌物質その他の有害物質が多数含まれているたばこの煙(喫煙者が吸って吐き出す主流煙と燃焼部から立ち昇る副流煙とがある。)を吸うことを強いられることになる(受動喫煙)。現在のように冷暖房が完備し、その効率を保持するためにほぼ密閉状態にある室内においては、受動喫煙が避けられないものとなっている一方、職場の中には、喫煙の被害を受け易い体質の職員、たとえば、咽喉頭炎になり易い者、妊婦、呼吸器系統・循環器系統に疾患を有する者、アレルギー患者、たばこ臭を嫌う者などがいる。
②(たばこの害と諸外国での規制)
たばこの煙の害については多くの報告があり、欧米等では、公共の建物内等あるいは職場での喫煙を刑罰をもって禁止する法規が制定されているところもあり、職場の同僚の喫煙により肺癌で死亡した者の遺族からの訴えに対し受動喫煙の被害を労働災害と認めた裁判例、たばこの煙の充満したオフィスでは働けない者に禁煙のオフィスが用意されない場合身体障害者年金を認めるとの裁判例、職場での禁煙を求める請求を認容する裁判例、ヘビー・スモーカーの夫に対する妻からの訴えを受けて家庭内での喫煙を全面的に禁止する命令をした裁判例等が現れるに至っている。
③(我が国での規制)
我が国においては、喫煙者を採用しない酒造会社や社内では禁煙として禁煙手当てを支給している企業も現れており、電車や航空機内その他で喫煙規制が進んでいるが、たとえば病院、映画館等に喫煙コーナーが設けられても換気設備が整っていないなど喫煙規制の有効性に欠ける点があり、テレビ、雑誌、新聞等、小学校低学年の児童が接し得るマスメディアでのたばこのコマーシャルも野放しであるなど、総じて喫煙規制が緩く、政府の対応も欧米諸国のように積極的でない。八〇年間にわたるたばこ専売制のもとで、財政収入を上げることに力が注がれ、喫煙の有害性の研究が遅れ、国民は長年喫煙の害について無知であった。官公庁の喫煙対策は、我が国社会の中でも遅れているところの一つである。
(2)(昭和六〇年五月二二日付け判定及び衛生研究所側の措置とその後の原告の被害の状況)
昭和六〇年五月二二日付け判定において、喫煙をする職員は、喫煙をしない職員と同席する場合、健康上の影響について十分配慮すべきものであることが認められている。しかし、衛生研究所の換気方式(集中換気方式)や研究室の日常の使用実態等のため、右勧告は不十分であった。
<以下省略>
(3)(環境調査の不十分性)
本件判定に際しては、喫煙による空気の汚染についての正確な測定がなされておらず、同研究所の受動喫煙の実態が十分把握されていない。
<以下省略>
(4)(東京都なかんずく衛生研究所における分煙化、喫煙室設置の必要性、可能性)
① 東京都には、職場における非喫煙者の生命、健康の安全を保持する義務があるというべきであり、喫煙者のみが使用する喫煙室を設置し、労働環境を改善すべき義務がある。ことに、東京都民の健康を守るという衛生研究所の職務の原点にたって考えれば、同研究所においては、他に率先して分煙措置をとり、換気系統が他の室とまったく異なる喫煙室又は喫煙場所を設置すべきことは当然である。
一般の官公庁で分煙化がなされていないことをもって、東京都なかんずく衛生研究所における右のような分煙化措置の必要性を否定することは不適当であり、たばこ専売制の影響で税収を優先して分煙化が遅れている官公庁や業績収入を第一義とした営業活動で健康保持の問題を軽視してきた私企業を分煙化の当否の比較の基準とすることは被告の裁量権を逸脱したものである。市区町村においては既に完全分煙化を達成しているところもある。
<以下省略>
(5) なお、被告は、本件判定において、「情勢適応の原則を考慮した」としているが、勤務条件の中で、住民の負担によって賄われている給与、そして、住民の利便につながる勤務時間、休日等の問題はまさしく社会一般の情勢を無視しえないけれども、職員の労働環境については全体の奉仕者として都民に貢献するために安んじて継続的に職務に専念できる環境とすべきであり、非喫煙者が健康を害され、職務上の取り扱いにおいても不当な不利益を受ける状態にあることを社会一般の情勢として理解することは不適切である。分煙化されている職場が一般に少ないからといって、そのことを根拠に衛生研究所の分煙化の当否を判断することは被告の裁量権の幅を自ら狭めるものとして不当である。
(6) 以上のとおりであって、受動喫煙を拒否する権利そのものは法制化されていないものの、労働基準法四二条は、労働者の安全及び衛生に関して労働安全衛生法の定めるところによるとしており、労働安全衛生法三条、二三条に基づいて労働者の危険又は健康障害を防止するための事業者等の責務が事務所衛生基準規則で具体化されている。したがって、原告には、非喫煙者の受動喫煙を拒否する権利に基づく措置要求権があり、他方、被告には、原告の本件措置要求を認めて、衛生研究所に対して必要な勧告をする権限があり、また、右権限を行使すべき法的義務があるものというべきである。
(二) 本件判定は公平な審理を規則に従って行っておらず、審査手続にも違法がある。
<以下省略>
(三) 本件判定が要求事項(1)イを認められないとしたことは違法である。
<以下省略>
(四) 本件判定が要求事項(2)アを取り上げなかったことは違法である。
<以下省略>
(五) 本件判定が要求事項(2)イを取り上げなかったことは違法である。
<以下省略>
2 被告の主張
<以下省略>
第三当裁判所の判断
一具体的争点に関する判断に先立ち、措置要求制度の趣旨並びにその取消訴訟の審判の対象と判断方法及び判断の基準時について述べると、次のとおりである。
地方公務員法四六条による措置要求制度は、同法が職員に対し労働組合法の適用を排除し、団体協約を締結する権利を認めず、また争議行為をなすことを禁止し、労働委員会に対する救済申立ての途をとざしたことに対応する代償、補完の措置であり、職員の勤務条件について簡易、敏速な審査手続による人事委員会又は公平委員会の判定を通じて職員の勤務条件の適正を確保しようとするものである。そして、勤務条件に関する措置要求を審査する人事委員会又は公平委員会は、職員の勤務条件に関する後記のような法律上の諸原則に照らして適正な勤務条件のいかんを判断して判定を行い、それに基づいて、自らの権限に属する事項については自らこれを実行し、地方公共団体の他の機関の権限に属する事項については当該機関に対して、適切な措置をとるよう勧告し、勧告を受けた機関がこれを可能な限り尊重すべき政治的、道義的責任を負うことになる。この勧告には法律上の拘束力はなく、一種の行政監督的作用を促す効果があるにすぎず、その手続は、司法手続に準ずるものというより斡旋、仲介の性質をもつものである。
しかして、勤務条件の適正な内容のいかんについて考えるに、職員の勤務条件については、いわゆる勤務条件法定主義(地方公務員法二四条六項、二五条三項、地方自治法二〇四条二、三項、二〇四条の二)のもとにおいて、いわゆる情勢適応の原則、均衡の原則等が法定されている。まず、地方公務員法一四条は、「地方公共団体は、この法律で定められた給与、勤務時間その他の勤務条件が社会一般の情勢に適応するように、随時、適当な措置を講じなければならない。」と定めているが、同条は、契約自由の原則のもとにある民間企業の労働条件に比して、主要な点が法律、条例によって決定される公務員の勤務条件が、社会的経済的諸情勢の変化に容易に即応しにくい性質を帯有しているため、地方公共団体のそれぞれの機関に、社会情勢の変化に対応して適時適切な措置をとるように努力する義務を課し、制度の仕組みの上からややもすれば硬直になりがちな職員の勤務条件を適時に社会の一般的情勢に適応したものとすることによって、職員の勤務条件に関する利益を保障しようとする側面を有し、その意味では、同条は、一面では、勤務条件法定主義、措置要求制度、給料表に関する勧告制度(地方公務員法二六条)と並んで、職員の勤務条件に関する保障規定のひとつであるということができる。しかしながら、他面、公務員は、理念的には国民又は住民を究極的使用者とする全体の奉仕者であって、その勤務条件の主要な点はいわゆる勤務条件法定主義のもとで民主的統制下にあるものであり、公務員の勤務条件の決定、判断は、国民ないし住民の意思にその淵源が存するものというべきであるから、ここにいう「社会一般の情勢に適応」した勤務条件とは、国民ないし住民一般の意向とそのもつ通念とにそって解釈されなければならないものというべきであって、公務員の勤務条件のみが多額の財政負担のもとに社会一般の労働条件から有利に乖離したものとなることが容認され難いこともいうまでもないところである。また、地方公務員法二四条五項は、「職員の勤務時間その他職員の給与以外の勤務条件を定めるに当たっては、国及び他の地方公共団体の職員との間に権衡を失しないように適当な考慮が払われなければならない。」と、いわゆる均衡の原則を定めているところ、職員の給与に関しては、同条三項で、「職員の給与は、生計費並びに国及び他の地方公共団体の職員並びに民間事業の従事者の給与その他の事情を考慮して定めなければならない。」として民間を含めた世間一般の水準を考慮すべきことが明定されているが、給与以外の勤務条件に関しても民間事業の従事者との均衡は当然に要請されるものと解すべきであり、勤務条件の適否の判断に際しては、国及び他の地方公共団体の職員の勤務条件のいかんはもとより、広く民間の動向のいかんをも考慮すべきものと考えられる。
以上のような措置要求制度の趣旨及び性質に鑑みると、人事委員会は、要求事項の内容、客観的性質、措置要求者がこれを要求する理由、事情、要求を認めないときに要求者に残存するかもしれない不利益の有無、これがあるとした場合の内容、程度、性質、要求の全部又は一部をいれて地方公共団体の機関に対して勧告をすべき内容の判定を選択するときにあり得べき判定内容のいかんとこれによって他の公務員や社会に及ぼす影響、社会情勢の推移とその見通し、その他、広範な諸事情を総合的に考慮して、最終的な判定内容を決定することができるものというべきであり、その判断は、平素から、各種措置要求や不利益処分の不服についての審査のみならず、職員の様々な勤務条件にかかわる、人事行政に関する研究、調査、企画、立案と報告及び勧告等についての職責を担っている専門機関たる人事委員会の総合的裁量に委ねられているものといわなければならない。そして、人事委員会は、その広範な裁量権の範囲内で、措置要求者の要求事項そのままを採用するか、採用しないか、という観点のみならず、当該要求者の要求の趣旨に副った何らかの措置が全体的、総合的観点から相当であると判断されるときは、措置要求者が要求事項として掲げた事項そのものとは異なる措置をとることを妥当とする判定をし、その旨勧告することも許されているものと解される。
右のような人事委員会に与えられた裁量権の性質に照らすと、措置要求に対する判定の違法性が審判の対象となる取消訴訟においてその存否を審査する裁判所は、人事委員会と同一の立場にたって、自らがどのような内容の判定をすべきであったかについて判断し、その結果と当該判定とを対比して判断の当否を論ずべきものではなく、判定当時の措置要求者の勤務条件が法令の規定する基準に達しない違法な状態にあるとか、当該判定を導いた審理の手続や認定、判断の内容に法令に違反し、あるいは考慮した前提事情に重大な事実の誤認があるなど重大な瑕疵があって、当該委員会に認められた裁量権の範囲を逸脱していると認められる場合、又はその裁量権の行使としてした判断、選択自体が社会観念上著しく妥当を欠き、裁量権を濫用したと認められる場合に限り、当該判定を違法であると判断すべきものであると考えられる。そして、当然のことながら、右判断は、当該判定のなされた当時の事情に基づいてなされなければならず、判定後に生じた事情によって判定の適否を判断することが許されないことはいうまでもない。
二以下、右に述べた見地から、本件判定の裁量権逸脱、濫用の有無及び審査手続の違法性の存否について検討する。
1 改善が要求されている原告の勤務条件の内容が、本件判定当時、違法な状態にあったかどうかをまず判断する。
(一) 室の空気環境についての法的規制は、事務所衛生基準規則(昭和四七年労働省令第四三号)によるものと、建築物における衛生的環境の確保に関する法律(昭和四五年法律第二〇号。いわゆる「ビル管理法」)に基づく同法施行令に定められた基準によるものとがある。
(1) ビル管理法は、多数の者が使用し、又は利用する建築物の維持管理に関し環境衛生上必要な事項を定めることにより、その建築物における衛生的な環境の確保を図り、もって公衆衛生の向上及び増進に資することを目的とするものであり、同法における「特定建築物」とは、興行場、百貨店、店舗、事務所、学校、共同住宅等の用に供される相当程度の規模を有する建築物で、多数の者が使用し、又は利用し、かつ、その維持管理について環境衛生上特に配慮が必要なものとして政令で定めるものをいい、右政令においては、建築物の用途、述べ面積等により特定建築物が定められるものとされている(同法二条)。そして、同法四条一項は、特定建築物の所有者、占有者その他の者で当該特定建築物の維持管理について権限を有するものは、政令で定める基準(「建築物環境衛生管理基準」)に従って当該特定建築物の維持管理をしなければならないものとし、右にいう政令として建築物における衛生的環境の確保に関する法律施行令(昭和四五年政令第三〇四号)二条が、「建築物環境衛生管理基準」を定めているところ、同条一号イ及びロはそれぞれ、中央管理方式の空気調和設備(空気を浄化し、その温度、湿度及び流量を調節して供給〔排出を含む。〕をすることができる設備をいう。)を設けている場合又は中央管理方式の機械換気設備(空気を浄化し、その流量を調節して供給〔排出を含む。〕をすることができる設備をいう。)を設けている場合には、居室についておおむね次の基準に適合するように空気を浄化するなどして供給すべきことを定めている。すなわち、浮遊粉じんの量については、0.15mg/m3、一酸化炭素及び炭酸ガスの含有率をそれぞれ後記のとおりの事務所衛生基準規則五条一項に定める吹き出し口の空気中の基準と同じ基準、すなわち、一〇ppm、一〇〇〇ppm以下とすべきことを定めている。そして、同施行令二条一号ハは、これら測定方法を厚生省令で定めるところによることとし、建築物における衛生的環境の確保に関する法律施行規則(昭和四六年厚生省令第二号)三条一号は、右測定方法につき、当該特定建築物の通常の使用時間中に、各階ごとに、居室の中央部の床上七十五センチメートル以上百二十センチメートル以下の位置において、浮遊粉じん量についてはグラスファイバーろ紙を装着して相対沈降径がおおむね一〇ミクロン以下の浮遊粉じんを重量法により測定する機器又は当該機器を標準として較正された機器を用いて測定すべきことを定めている。
(2) 労働安全衛生法(昭和四七年法律第五七号)は、労働基準法と相まって、労働災害の防止のための危害防止基準の確立、責任体制の明確化及び自主的活動の促進の措置を講ずる等その防止に関する総合的計画的な対策を推進することにより職場における労働者の安全と健康を確保するとともに、快適な作業環境の形成を促進することを目的とするものであり、同法に基づき、その実施のために定められた事務所衛生基準規則(昭和四七年労働省令第四三号)三条は、その一項において、「事業者は、室においては、窓その他の開口部の直接外気に向って開放することができる部分の面積が常時床面積の二十分の一以上になるようにしなければならない。ただし、換気が十分に行われる性能を有する設備を設けたときは、この限りでない。」と定め、同条二項において、「事業者は、室における一酸化炭素及び炭酸ガスの含有率(一気圧、温度二十五度とした場合の空気中に占める当該ガスの容積の割合をいう。)をそれぞれ百万分の五〇以下及び百万分の五千以下としなければならない。」と定めているが、浮遊粉じんの量については何らの定めがない。また、同規則五条一項は、中央管理方式の空気調和設備又は機械換気設備を設けている場合には、「室に供給される空気」について、次の基準に適合するように当該設備を調整しなければならないと定めている。すなわち、浮遊粉じんの量を0.15mg/m3、一酸化炭素の含有率を一〇ppm(外気が汚染されているために、一酸化炭素の含有率が一〇ppm以下の空気を供給することが困難な場合は二〇ppm)、炭酸ガスの含有率を一〇〇〇ppm以下とすべきことを定めている。そして、右は「室に供給される空気」についての基準であるから、空調設備のある場合は空気吹き出し口から吹き出す空気について測定がなされるべきことになり、実際上、吹き出し口から吹き出している空気または吹き出し口内もしくは吹き出し口に近接するダクト内の空気がこれに該当するものとして、そこでの測定が常法とされる。
こうした基準値の測定方法に関して、事務所衛生基準規則八条は、前記厚生省令と同一基準による機器を使用すべき旨を定め、昭和四六年八月二三日付労働省労働基準局長の都道府県労働基準局長あて基発第五九七号(<証拠>)は、右規則八条にいう機器のうち通常用いられるものの種類には、デジタル粉じん計、ろ紙じんあい計などがあるとしており、また、測定回数につき、「室の通常の使用時間中において、おおむね等時間間隔ごとに三回以上行うこと。なお、一般的には、始業後、終業前およびその中間時に実施すれば足りる」とし、各測定回の測定値の扱い方につき、「浮遊粉じん、一酸化炭素および炭酸ガスの測定値については、各測定回の測定値を算術平均して算出すること」と定め、なお、「事務所衛生基準規則三条二項は、事務室では、喫煙、暖房用燃焼器具の使用、呼吸等により一酸化炭素及び炭酸ガスが発生し、換気不良の場合にはそれらのガスが蓄積するおそれがあるので、これを防止するための措置を定めたものであり、室内で発生する一般浮遊粉じんの抑制濃度については、今後の検討にまつことにされた」ことが明示されている。
(二) 喫煙によって影響を受ける室内空気環境条件のうち、一酸化炭素及び炭酸ガス含有率の増加はいずれもわずかであって、非喫煙者の健康への影響及び不快感に直接影響を及ぼすのは浮遊粉じん中の大部分を占めるたばこ煙であり、たばこ煙の量は浮遊粉じん量に着目して判断されるのが一般である(<証拠>)。ところで、衛生研究所は、ビル管理法でなく事務所衛生基準規則の適用のある事業所であるが、同所においては、衛生研究所環境衛生研究科環境物理研究室によって、ビル管理法施行令二条一号イに定める基準に沿う前記の常法に従って、昭和六〇年八月及び昭和六一年三月に、浮遊粉じん量を含めた所内の環境調査が行われ(<証拠>)、その後引き続き半年に一回、同様の調査が続けられている(<証拠>)。昭和六〇年八月から昭和六三年三月までの右調査結果(東京都立衛生研究所事務室環境測定結果)の内容は、次のとおりであり、浮遊粉じん量がビル管理法施行令二条一号イに定める量を超えたのは、被告の主張するとおり、昭和六二年三月の調査における食中毒控え室だけで、他にはない。
すなわち、
(1) 昭和六〇年八月二八日ないし同年九月九日に所内一六科、一八箇所について行われた環境測定結果(昭和六〇年九月二〇日付け環境調査報告書・<証拠>)によれば、同年八月三〇日の医薬品注射薬控え室における午後四時四分の値が0.16mg/m3という値(室の中央で三回測定しての平均値〔<証拠>〕。以下、すべて同じ。)を示したが、同日午前一〇時五分の値が0.13mg/m3、午後一時一〇分の値が0.05mg/m3であったため、平均値は0.11mg/m3となっている。右に午前一〇時五分の時点では在室者一人が喫煙中であり、午後四時四分の時点では在室者二人中一人が喫煙中であり、また、同年九月五日の生化学①も平均値が0.11mg/m3であって(午後一時一〇分が0.14mg/m3、午後四時が0.12mg/m3であっていずれも一人喫煙中)換気扇二台が稼働中であった。しかし、浮遊粉じん量がビル管理法施行令二条一号イに定める基準値を超えたところはなかった。右のほか、このときの測定値の中で、在室者が喫煙中であった室における測定値を比較すると、食中毒控え室で同年八月二九日午後四時に0.10mg/m3、ウイルス第一研究室で同日午後四時二五分に0.07mg/m3、食肉魚介細菌①で同年九月二日午後一時二八分に0.03mg/m3となっている。なお、当時原告所属の腸内細菌控え室、同試験室については、同年八月二九日にいずれも非喫煙状態で測定され、前者が午前一〇時二〇分、午後一時三〇分、四時一五分にそれぞれ0.01mg/m3、0.05mg/m3、0.01mg/m3(平均値0.02mg/m3)、後者が午前一〇時二五分、午後一時三五分、午後四時二〇分にそれぞれ0.02mg/m3、0.01mg/m3、0.01mg/m3(平均値0.01mg/m3)であった。
(2) 昭和六一年三月一七日ないし同月二七日に行われた環境測定結果(昭和六一年四月一五日付け環境調査報告書・<証拠>)によれば、同月二〇日の食中毒控え室における午前一〇時及び午後四時の値が0.13mg/m3という値を示し、平均値で0.11mg/m3であったが、ビル管理法施行令二条一号イに定める基準値を超えたところはなかった。このときの測定値の中で、在室者が喫煙中であった室における測定値を比較すると、資料室で同月一七日午前一〇時一〇分に0.08mg/m3、衛生細菌控え室で同日午後一時二五分に0.04mg/m3、庶務係で同月一九日午後四時に0.08mg/m3、調査係で同日午後四時五分に0.08mg/m3、業務係で同日午後四時一〇分に0.08mg/m3、ウイルス第一研究室で同月二〇日午後四時三五分に0.05mg/m3、注射薬控え室で同日午前一〇時三四分に0.11mg/m3となっている。なお、腸内細菌控え室、同試験室については、同年八月二九日にいずれも非喫煙状態で測定され、前者①が午前一〇時二〇分、午後一時二五分、午後四時二〇分にそれぞれ0.00mg/m3、0.01mg/m3、0.00mg/m3(平均値0.00mg/m3)、前者②が午前一〇時二五分、午後一時三〇分、午後四時一五分にそれぞれ0.00mg/m3、0.01mg/m3、0.01mg/m3(平均値0.01mg/m3)、後者①が午前一〇時三〇分、午後一時三五分、午後四時二五分にいずれも0.01mg/m3(平均値0.01mg/m3)、後者②が午前一〇時三五分、午後一時四〇分、午後四時三〇分にいずれも0.01mg/m3(平均値0.01mg/m3)であった。
(3) 昭和六一年一〇月九日ないし同月二三日に、所内一六科、一八箇所で行われた環境測定結果(昭和六一年一〇月二九日付け環境調査報告書・<証拠>)によれば、同月一三日の食中毒控え室(同室は、他の室に比べて人数の割にかなり狭い。)においては、換気扇稼働中にもかかわらず喫煙を原因として、午前一〇時一〇分の値が0.35mg/m3、午後一時一四分の値が0.01mg/m3、午後四時一〇分の値が0.09mg/m3を示し、一時的に0.35mg/m3もの値となり、平均値でも0.15mg/m3とビル管理法施行令二条一号イに定める基準内の上限値となっていた。他に浮遊粉じん量が右基準値を超えたところはない。このときの測定値の中で、右以外に、在室者が喫煙中であった室における測定値を比較すると、庶務係で同月九日午後四時一〇分に0.03mg/m3、調査係で同日午後四時一五分に0.03mg/m3、業務係で同日午後四時二〇分に0.02mg/m3、用度係で同日午後一時二五分に0.08mg/m3、四時二五分に0.02mg/m3、会計係で同日午後一時三〇分に0.04mg/m3、四時三〇分に0.02mg/m3、腸内細菌控え室で同月一三日午前一〇時二五分に0.07mg/m3、ウイルス一研控え室で同日午前一〇時四五分に0.05mg/m3、容器包装控え室で同月一五日午前一〇時三分に0.14mg/m3となっている。
(4) 昭和六二年三月九日ないし同月一九日に、所内一六科、一八箇所について行われた環境測定結果(昭和六二年三月三〇日付け環境調査報告書・<証拠>)によれば、同月一〇日の食中毒控え室において午前一〇時に喫煙者一人で0.20mg/m3、午後一時一二分に喫煙者一人で0.19mg/m3、午後四時二分に喫煙者三人で0.20mg/m3という値を示し、平均値でも0.20mg/m3となって、ビル管理法施行令二条一号イに定める基準値を超えていたが、他に浮遊粉じん量が右基準値を超えたところはない。同月九日の庶務係(当時の同室内は、書庫やスチールケースの配置、部屋のレイアウト等が空気の動きの悪い形になっていた。)においては午前一〇時五分の値が0.27mg/m3という値を示したが、午後一時一五分の値が0.10mg/m3、午後四時の値が0.05mg/m3であったため、平均値は0.14mg/m3となっている。右に午前一〇時五分の時点では在室者中二人が喫煙中であり、午後一時一五分の時点では在室者中一人が喫煙中であった。同日の調査係でも午前一〇時一〇分には一人喫煙中で0.11mg/m3と測定され、同月一二日の血清試験室でも午前一〇時五分に喫煙者一人で0.15mg/m3という値を示したが、平均値はそれぞれ0.06mg/m3、0.07mg/m3となっている。また、同月一八日の容器包装控え室では、午後一時一五分に喫煙者二人で0.12mg/m3という値を示したが、他の二回がいずれも0.01mg/m3であったため、平均値は0.05mg/m3にとどまっている。
(5) 昭和六二年七月二七日ないし同年八月六日に、所内一六科、一八箇所について行われた環境測定結果(昭和六二年八月二八日付け環境調査報告書・<証拠>)によれば、浮遊粉じん量が一時的にもせよビル管理法施行令二条一号イに定める基準値を超えたところはなく、環境別館控え室の同月三日の午後四時三七分の0.12mg/m3を除いて、すべて0.10mg/m3以内となっている。右のほか、このときの測定値の中で、在室者が喫煙中であった室における測定値を比較すると、庶務係で同月九日午前一〇時四分に0.03mg/m3、調査係で同日午前一〇時八分に0.06mg/m3、業務係で同日午前一〇時一二分に0.04mg/m3となっている。
(6) 昭和六三年三月三日ないし同月一四日に、所内一六科、一八箇所について行われた環境測定結果(昭和六三年四月八日付け環境調査報告書・<証拠>)によれば、業務係で同日午後一時二五分に二人喫煙中で0.17mg/m3という値を示したが、午前一〇時一二分、午後四時一六分にはそれぞれ喫煙者がなく、0.04mg/m3、0.06mg/m3であったため、平均値は0.09mg/m3であり、同月一〇日の医薬品注射薬研究室における午前一〇時三〇分の値が0.10mg/m3という値を示したが、午後一時三五分の値が0.03mg/m3、午後四時二八分の値が0.01mg/m3であったため、平均値は0.05mg/m3という値となっており、ビル管理法施行令二条一号イに定める基準値を超えたところはなかった。このときの測定値の中で、右以外に、在室者が喫煙中であった室における測定値を比較すると、食中毒控え室で同月四日午後一時一五分に0.06mg/m3、腸内細菌控え室で同日午後一時三二分に0.02mg/m3(ただし、窓側位置での測定では0.23mg/m3)、庶務係で同月一四日午後一時一〇分に0.06mg/m3、資料室で同日午後一時一八分に0.13mg/m3となっている。
(7) 昭和六三年九月一日ないし同月九日に、所内一六科、一八箇所について行われた環境測定結果(昭和六三年九月三〇日付け環境調査報告書・<証拠>)によれば、同月七日の食中毒控え室で二人が喫煙中、午後一時五分に0.13mg/m3、午後四時に0.10mg/m3という値を示したが、午前一〇時には喫煙者がなく、0.01mg/m3であったため、平均値は0.08mg/m3であり、同日のウイルス第二研究室で一人喫煙中の午前一〇時二五分に0.10mg/m3であったが、午後一時三〇分の値が0.07mg/m3、午後四時二五分の値が0.01mg/m3であったため、平均値は0.06mg/m3という値となっており、ビル管理法施行令二条一号イに定める基準値を超えたところはなかった。このときの測定値の中で、右以外に、在室者が喫煙中であった室における測定値を比較すると、環境別館①で同月一日午後四時三五分に0.04mg/m3、庶務係で同日午前一〇時二分に0.03mg/m3、午後四時に0.02mg/m3、調査係で同日午前一〇時〇七分に0.03mg/m3、午後四時五分に0.06mg/m3、業務係で同日午前一〇時一二分に0.06mg/m3、午後四時一〇分に0.02mg/m3、用度係で同日午前一〇時一五分に0.06mg/m3、会計係で同日午前一〇時二〇分に0.06mg/m3、腸内細菌控え室で同月七日午後一時二〇分に0.03mg/m3となっている。
以上のとおり、ビル管理法施行令二条一号イに定める浮遊粉じん量に適合しない値を示したのは、昭和六二年三月の調査における食中毒控え室のみであり、一時的に浮遊粉じん量が0.15mg/m3を超えた場合は六回ないし七回ある(もっともうち一回は所定の位置で測定したものではない。)が、その測定回数に占める割合は一パーセント弱にすぎない。右にみた六回の一時的な浮遊粉じん量の基準値超過の際には、いずれも喫煙がなされており、その他の測定をみても、一部の室では喫煙により浮遊粉じん量が顕著に増加すること、しかも、喫煙者が多くなればより影響が大であることが認められる。これらのデータによっても、なるほど、在室者の多数が喫煙した場合には、たばこの煙や臭いを嫌う者にとって、相当の不快感のあることが窺われるし、温度差の点から換気不良と指摘された室もあり(もっとも、喫煙していない状態下での測定のため喫煙によって発生した浮遊粉じんの換気の程度は不明である。)、昭和六一年一〇月一三日の食中毒控え室における測定値等、換気扇稼働中であってもその効果がさほど表れない室もあることなど、室の換気の点で問題がまったくないわけではないと考えられるが、ビル管理法施行令二条一号イに定める浮遊粉じん量を基準としてみてすら、これに適合しない値を示したのが、昭和六二年三月の調査における食中毒控え室のみであり、一時的に浮遊粉じん量が0.15mg/m3を超えた場合も所定の測定方法によれば六回にすぎず、その測定回数に占める割合が一パーセント弱にすぎないことや、これらの調査結果に表れた測定値を総合すると、事務所衛生基準規則における供給空気の質についての基準に沿ったものであるかどうかの観点からの測定値、すなわち、換気装置の空気吹き出し口付近での測定値も、所定の基準に適合していたことは容易に推認し得るところである。
他にも、本件判定当時の原告の勤務条件の内容を違法というべき事情を認めるに足りる証拠はない。
(三) したがって、本件判定当時、改善が要求されている原告の勤務条件の内容が法令の規定する基準に達しない違法な状態にあったとはいえない。
2 次に、本件措置要求における喫煙規制に関する総合判断の基礎となり得べき諸事情の主要なものについて考える。
(一) たばこの有毒性そのものについては、<証拠>にもその概要が示されているが、今日既に一般常識となっているものと考えられ、それが癌や循環器疾患発生のリスクを高め、呼吸器疾患の発生に関連し、妊婦に対する影響等様々の有毒性を指摘することは、本件判定当時においても、医学上の一般的見解であったものと認められる。
しかして、本件判定当時の我が国における社会の意識、通念について考えるに、不特定多数の者が集まる公共の場を中心として様々な喫煙規制が次第に行われるようになってきているが、職場において、原告主張のような分煙と結びついた禁煙という規制方法を当然のこととして受けとめるまでには至っておらず、喫煙を規制する場合でも、職場の構成員の自発的意思を重視した扱いが多いものと解される。
(1) すなわち、これに関する本件証拠関係をみてみると、まず、諸外国における喫煙規制についての各種報道には、次のようなものがある。
<以下省略>
以上のような報道がニュース性を有しているということは、また、とくに各報道に際し、「厳しい」、「過激な」、「例のない徹底した」というような形容が付されていることは、それらが主として罰則を伴う法的規制であるという点を考慮してもなお、報道当時の社会一般の意識、通念として、職場における禁煙が必ずしも当たり前のことではなく、こうした措置をとることが英断であるとみる見方をしていたことを如実に表しているものと解される。
(2) さらに、我が国における喫煙規制等についての各種報道例として次のようなものがある。
<以下省略>
原告自身、本件判定当時、一般の官公庁では分煙化が行われていないが、官公庁の喫煙対策は我が国社会の中でも遅れているところの一つであるとしているところであるが、以上のように、新聞等で報道された様々な喫煙規制のあり様の中には初めての試みとして紹介されているものも多いのであって、我が国においては、官公庁に限らず一般に、本件判定当時、不特定多数の者が集まる公共の場においてはかなり喫煙規制が進んできている場面があるものの、それとてもいまだ普遍的なこととまではいえなかったことが明らかである。原告は、「現在のように冷暖房が完備し、その効率を保持するためにほぼ密閉状態にある室内においては、受動喫煙が避けられないものとなっている」と主張するところ、なるほど、右(2)②のように新築等の事務所等では四〇パーセントもの企業が何らかの喫煙規制を実施しているという調査結果の報道もあり、他にも、我が国における私企業等の職場で一定の場所、一定の時間を禁煙とする企業や中には全面的な禁煙の方針をとっているところがあるという新聞等の報道や報告もあるが、総じて、本件判定当時の我が国における職場での喫煙に対する対応の状況は、職場の構成員の自発的意思を重視した扱いが多く、その態度いかんにかかわりなく規制するというところまでいっている例は少ない。労働省労働衛生課編「職場と喫煙(職場における喫煙に関する懇談会報告書)」(<証拠>)中では、業種の性質等もあって全面的禁煙としているところもあり、勤務時間中に一定の禁煙タイムを設けたり、会議中、立会い時間中、営業時間中は禁煙として喫煙に対する対策をたてている企業も増えてきていることが示されているが、具体的報告例の中の多くは、環境改善運動の一環として各職場で自発的に禁煙を推奨しているなどというもので、採用されている方法には任意性が強いことが認められる。なお、原告は、被告がさらに多くの国内外の情報を収集した上で判定をなすべきであった旨主張するが、右判断と異なる情報が得られる見込みはないと考えられる。
(二) 次に、前回措置要求に対する判定後の衛生研究所内の状況及び本件措置要求の審査手続の進行状況について検討する。
(1) まず、本件措置要求の審査手続中で、原告と衛生研究所所長とから被告に提出された各書面は、次のとおりである。
<以下省略>
これらの書面の中で、衛生研究所長の意見は、次のようなものであった。すなわち、「喫煙問題に関する社会的認識が進みつつある現状に鑑み、引き続き所長通知等の遵守及び喫煙問題に関する啓発に努めるとともに、庁舎事情による限界はあるものの、可能な限り環境改善に努めて行く考えである」、また、これらの諸措置の実施に当たって「職場内における良好な人間関係が維持されなければならないことは、所長通知の中でも明らかにし、これまで十分意を用いてきたところであるが、今後とも、一層配慮して行く考えである」(<証拠>)、「現時点においては喫煙者と非喫煙者のそれぞれの立場を尊重していくことが組織の活性化を保つとともに、円滑な運営を図るうえにおいて最善の方策であると考えている」、前回判定の「趣旨に添い、可能な限りでの禁煙措置を講じ、非喫煙者の蒙る被害を最少限度に抑える努力を今後とも続けていく所存である」(<証拠>)、というものであった。
(2) 衛生研究所内の環境調査結果については、既に前記1(二)で述べたとおりであるが、原告は、右調査が不十分であると主張する。原告が右調査を不十分であるとする理由は、ひとつには、右調査においてはガス成分の量が測定されていないというところにあるものと解される。なるほど、たばこの煙の中には粒子相の成分とガス相の成分とがあり、理論上浮遊粉じんの量の測定だけでたばこの煙の中に含まれているすべての成分を把握しきれていないことは確かであるけれども、前記のようにたばこの煙の影響を把握する方法としては通常浮遊粉じん量測定の方法が用いられているのであって、環境検査をも主要な業務としている衛生研究所ですら、どのガス相成分に着目して分析するのが適当であるのかを把握していない実情にあり、浮遊粉じん量測定以外の方法としては、ニコチンの量の測定を提案した者があるくらいで、他に実用的な又は簡易な測定方法があるわけではない。そして、一般的にいえば、粒子相成分の多寡はガス相成分の多寡をも反映しているものと考えられ、特別ガス相成分の測定分析をしないとたばこの煙の影響を把握できないとは考えられていない(<証拠>)。また、原告は、右環境調査が、作為的条件を設定しないで、喫煙者がいる部署においても喫煙状態でないときに測定された場合もあったことについてかえって不当であると主張し、受動喫煙の被害の程度を正確に把握するためには、まず、各部署の喫煙者の数を正確に把握する必要があり、それを前提として、無作為に測定するのではなく意図的に各室の全喫煙者に同時に喫煙させた上で継時的測定を行うことによって、喫煙による室内の空気の汚染状態の最大値と汚染の度合いの変動状況と汚染された空気が完全に排気されるまでに要する時間等をも正確に把握し、日常考え得る様々の可能性に考慮しなければ十分な実態調査とはいえない、と考えるようであるが、なるほど、そのような測定をも実際に行えばより正確な状況の把握をなし得るかもしれないけれども、現実に各職員が職務遂行中の時間帯において、現実に執務している職員を動員して、そのような測定調査を行うことが、業務への差し支えを生じることも当然にあり得べきことである。原告の主張は、喫煙対策をあらゆることに優先して行うべきであるとの考え方を前提として初めて成り立ち得るものであり、衛生研究所による測定方法が本件判定当時の技術的方法論として著しく不当であったということはできない。
そして、その測定の結果も既にみたとおり、法律上衛生研究所に適用になる事務所衛生基準規則による基準ではなく、ビル管理法による基準によって検討してみても、基準を超えることはまずないという状況にあったのであり、その程度は、極く普通の事務所の程度であったといえる(前記1(二)掲記の各証拠、<証拠>)。
(3) ところで、前記「事案の概要」のとおり、原告は、前回の措置要求をし、被告は昭和六〇年五月二二日付け判定とこれに基づく衛生研究所に対する前記勧告をしていたものであるが、右判定、勧告後に衛生研究所がとった措置は、次のとおりであった。
衛生研究所においては、前回の措置要求に対する昭和六〇年五月二二日付け判定後、同日付の勧告を受けた後、職場討議等を経た上、昭和六〇年六月二一日付衛研庶第三三六号「所内における喫煙について」所長通知及び同日付「『所内における喫煙について』の運用等について」所長決定により、衛生研究所における喫煙に関する措置を定め、職員に通知した。前記勧告の内容と対照すると、所長通知及び所長決定の内容は、前記勧告を全面的に尊重したものとなっているのみならず、当該判定主文において一般的に禁煙とすることとされた場所以外についても、各科(課)での申し合わせにより禁煙とした当該各科(課)内の場所は禁煙とし、また、会議室、ゼミナール室等での会議、打合せ等における喫煙は自粛することとする措置がとられた。その結果、衛生研究所の建物内の室は、従来から禁煙とされている一九八室のほか六四室が禁煙となり、それは全体の77.7パーセントにあたることとなり、喫煙可能とされている室は、一〇一室で全体の22.3パーセントとなった。そして、右所長通知及び所長決定後、禁煙と定められた場所及び各職場からの申し出等に応じて、同年七月から八月にかけて、禁煙表示ステッカー二〇三枚が貼付され、その後、換気扇約二〇台(合計経費約一一〇万円)が設置され(<証拠>。結果的に、衛生研究所の換気装置は、中央管理方式による空気調和設備下で、換気扇が設置されている室数が一〇六室、換気扇箇所数が一五一箇所となっており、また、ドラフト設置数は五七個である<証拠>。)、また、職員団体にも所長通知の写しが交付された(<証拠>)。そして、前記所長通知及び所長決定の周知後も、喫煙者職員が非喫煙者職員に配慮するよう自覚を促すため、昭和六一年五月一三日、定例部長会で前記所長通知及び所長決定の趣旨を徹底するように指示され、同年七月四日、玄関ロビーの掲示板に、東京都の保健所・衛生局作成の「タバコよさようなら」というかなり詳細な内容のパンフレットが掲示され、同月八日には部長会でこれが各部長に配付され、同年九月二四日には、科長会でも右の趣旨の徹底が指示され、同年一二月五日には部長会で同年一〇月の前記1(二)(3)記載の環境調査結果の報告が行われ、昭和六二年一月二七日には、再度、科長会で前記趣旨の徹底が指示され、同年五月二〇日の部長会で同年三月の前記1(二)(4)の環境調査結果の報告がなされ、同年一二月一五日の部長会で同年八月の前記1(二)(5)の環境調査結果の報告が行われた(<証拠>)。原告も、昭和六二年一月二七日に科長連絡会で所内喫煙について所長通知を遵守するように再度指示があったことを知らされ、職員に対してその旨の指示が行われていることを自認しており(<証拠>)、また、昭和六一年七月に東京都が作ったパンフレットが掲示されたことについて、大変望ましいことと思う旨述べている(<証拠>)。その他、前記環境調査結果報告に基づき庶務係や食中毒控え室等について、空気の動きをよくし、換気装置に実効性を確保するために、部屋のレイアウトや物の配置を変える措置がとられたり(<証拠>)、前記環境調査結果報告書を職員全員が読むことのできるように回覧されたり(<証拠>)している。
そして、衛生研究所においては、前記のとおり、昭和六〇年八月以降引き続きほぼ半年に一回の調査が続けられており、昭和六一年三月の調査では、気流分布調査及びドラフト風量調査も併せて実施された(<証拠>)。
なお、原告は、自らの希望により、昭和六〇年四月に、生活科学部乳肉衛生研究科食肉魚介細菌担当から微生物部細菌第一科に異動し、同科腸内細菌担当となった(<証拠>)が、右異動に際して、換気扇一台が同研究室の控え室に取り付けられ(<証拠>)、前記環境調査についても、昭和六〇年夏期の調査の方法について原告が不満をもち、同年冬期の調査方法について安全衛生委員会での再検討を求める要望をし、その結果、原告としてはなお不十分とするものの、「四室でドラフトや気流測定がなされる」(<証拠>)などの対応があった。その他、所内の換気に関しても、二号館の一階及び地下の一部の換気系統について、ダンパー操作により新しい空気のみを取り入れる方式が試行されたり(<証拠>)、原告所属の食中毒控え室に換気扇が増設されたり(<証拠>)しており、衛生研究所側に原告に対する相当の配慮があったことが認められる。
次いで、原告は、昭和六一年五月二八日、同月二六日付の診断書を工藤科長に提出し、たばこの被害を受けない部屋の提供を求め、同様の要望を庶務課長、事務部長にも申し出た。そこで、衛生研究所側では、原告に個室を提供すべく検討の結果、六一七号室と五一九号室をそれぞれ原告の控え室及び実験室とすることとした。そして、これらの現控え室及び実験室の状況についてみるに、原告の控え室とされた六一七号室は、衛生研究所二号館一階にあり、かつて検体受付用の部屋として使用されていた約7.5平方メートルの室で、微生物部細菌第一研究科長室の前に位置しており、同室には、空調設備、電話、手洗い器、スピーカーが設置されており、原告の控え室とされる前は、ファクシミリ、パーソナルコンピューターが設置されていたが、原告の控え室とするに当たって、右機器は他に移動された(<証拠>)。同室には外気に開放し得る窓はないが、廊下側への窓があり(乙第二号証)、原告が同室への換気扇の設置を促すとすぐに取り付けられた(<証拠>)。なお、他の食中毒担当職員らの使用している控え室は殊に狭く、そこには原告の執務机を置く余地がない。また、原告の実験室とされた五一九号室は、同館の地下一階(地表面と窓が同一の高さになっているいわゆる半地下である。)にあり、微生物部細菌第一研究科所属の無菌室と呼ばれる実験室であって、他の食中毒担当職員らの使用している実験室は同人らの実験室の控え室に隣接している(争いのない事実、<証拠>)。
なお、衛生研究所側から原告に対し、右控え室を移す旨の提案がなされたことがあった。すなわち、昭和六二年八月ころから九月ころにかけて、衛生研究所側から原告に対し、控え室を前記六一七号室から五〇一号室に移す提案(五〇一号室は地下にあり、五一九号室からは五〇一号室の方が近い。また、原告は、六一七号室からの階段の昇降が苦痛であると述べていた。)がなされた。しかし、原告は、五一九号室に近いといっても、所属の他の職員らのいる部屋からは双方とも遠く、地下は食堂やロッカー室、理髪室等があるだけで、他の研究職職員の執務室はないところであって、対応策が安易であるなどとして、これを拒否した。その際、庶務課長が「無理に強制することはしない。どの研究室もそんなに恵まれてはいない。」旨述べたのに対して、原告は、「次元が違うことではないか。」と答えるなどの経過もあった(<証拠>)。
(4) さらに、前記所長通知、所長決定後の個々の職員の喫煙に対する態度をみるに、原告自身、微生物部細菌第一科腸内細菌室に異動(昭和六〇年四月)後のことについて、「同室の職員五人中三人が喫煙者で、いくらかの注意は喫煙者によりなされたが、たばこの被害を受けないようにはならなかった」(<証拠>)と述べ、また、衛生研究所長の昭和六一年九月二九日付意見書(<証拠>)の第11(5)において、微生物部細菌第一科腸内細菌室では、原告の異動時に「原告が在席しているときは喫煙しない。原告が不在時に喫煙するときは、換気扇及びドラフト(吸引排気装置)を稼動させるなど換気に心がける」ことを申し合わせ、右申し合わせは所長通知後も維持され、一、二偶発的事例はあったものの、ほぼ全面的に履行され、原告に対する配慮がなされてきた旨述べられているところ、原告自身、微生物部細菌第一科腸内細菌室に異動(昭和六〇年四月)後のことについて、「昭和六〇年一二月から昭和六一年三月にかけては、異動したてのころより被害は少なくなっていた」(<証拠>)と述べているのであって、さらに、衛生研究所長の昭和六一年九月二九日付け意見書(<証拠>)に対する昭和六一年一二月一二日付け認否・反論書(<証拠>)において、勧告後の衛生研究所長のとった措置の遵守に関して周知徹底を機会あるごとに図っているとの説明に対し、「勧告当初は喫煙者自身ですら換気扇をつけようとしなかった」と反論するが、同時に「現在は換気扇をつけて喫煙している」ことも認めており、原告としてはこれらは対策として不十分なものにすぎないと主張するものの、他にも、「工事をしている人が廊下を歩行喫煙したり、区職員あるいは一般の人が食堂で食事中喫煙し、注意したことがある(なお、所長決定によると、衛生研究所職員以外の者に対しては前記所長通知の内容の遵守について協力を求めるとされている。)。その他、所内職員ですら歩行喫煙をし、私の姿を見て近くのドアへ入る者もいたほどである」が、「現在は、出くわさないのか、見受けられない」(<証拠>)、また、「かつて庶務で課長、係長その他の人が喫煙中換気扇の作動がなく、促したことがある。腸内細菌室、食中毒室でもまだ徹底されていない」ものの、「回数は以前より少なくなったが、冬期、勤務時間外も守ってほしい。」(<証拠>)、「注意してくれる時が増えてきた」(<証拠>)、「現在は措置要求中であるため、歯止めとなっているとも考えられる。」(<証拠>)というのであり、また、原告の述べるところによると、原告自身で昭和六三年七月五日に六一七号室の吹き出し口を閉じ、また、五一九号室のエアコンディショナーの使用をやめたが、それでも六一七号室へのたばこ臭の流入がやまなかったので、その臭気を辿って喫煙している場所(六一七号室の上階のウイルス準備室)へ行き、ウイルス研究科長にそこでの喫煙を自粛するように話したところ、喫煙可能とされている室ではあるが、時々たばこを吸うことはあるものの、ほぼ注意してくれており、六一七号室にたばこ臭が流入する頻度は減ったというのである。これらは、客観的にみれば、衛生研究所の職員側に喫煙について注意しようという態度があった事実を自認するものということができる。こうした経過の中で、原告のいうところの被害の程度はかなり改善されてきていることが、原告の提出にかかる各認否・反論書の記載の各所からも窺われる。
以上の他にも、原告は、会議等では喫煙を自粛するとされても自発的に喫煙しないようにはならないと主張するものの、同時に、原告から喫煙を遠慮するように言われてやめたとも述べているのであって、かようにして、原告からの注意により、喫煙をやめる者も相当数いることが認められるのであり、こうした状態は、前記判定、勧告及びこれに従った衛生研究所側の措置の成果とみることができる一方、<証拠>によると約二割いるという衛生研究所における喫煙者職員のうちの相当数は、衛生研究所の措置の趣旨に次第に従うようになってきているものと評価することができる。
なお、衛生研究所における前記のような喫煙対策について、他の非喫煙者職員からこれが不徹底であるとか、不十分であるとする何らかの不満、不服が提起されたことを窺わせる証拠はなく、かえって、原告本人尋問の結果によると、原告が周囲の非喫煙者職員に喫煙室ができればいいと話してみても、「それはしょうがないでしょう」という意見しか返ってこないというのであって、むしろ、積極的に喫煙室設置を求めたりしている職員が原告の他にはいないことすら窺われるところである。
原告は、申し合わせの結果禁煙とされた場所の中に、原告が最も問題とした控え室を備えない実験室については、二〇余室が喫煙可能となっており、禁煙とされたのが一〇余室にすぎないとして(<証拠>)、右措置が不十分であったという言い分であるが、それらの室は前記判定において禁煙とすることを妥当とされた場所ではなく、衛生研究所側における前記判定、勧告に対する対応が不十分であるとする理由にはならないこともちろんであり、かえって、右判定、勧告で指摘された場所以外に原告の述べる一〇余室を禁煙とする申し合わせがなされたということは、右判定、勧告の趣旨が同所内の職員のかなりの者に理解され、その協力が得られたことを示すものと評価するのが相当である。
(5) さらに、向後の見込みについてみるに、衛生研究所の建物については、全面的な建替えが予定されており、東京都の計画によると、その際には原告主張のような分煙が可能であり、現にその計画の中に入っており、新庁舎完成予定時期は平成九年ないし平成一〇年とされている(争いのない事実、<証拠>)。
3 本件判定が原告の要求事項(1)アを認めることができないとした理由は、要約すると、被告の主張するとおり、法令違反の有無、原告の要求を受け入れた場合における財政上の負担、職場管理・人事管理の側面、喫煙に関する社会の規範意識、官公庁、私企業の禁煙・分煙の現状等を広く勘案し、昭和六〇年五月二二日付け判定の趣旨及びその実現程度をも考慮の上、前記のような状況下で、換気系統を別にしない喫煙室の設置が理想的であるが、なお、しばらく衛生研究所当局の努力の成果を観察してみることが必要であると考えた、というものである。
本件判定の違法事由の存否を審判する本件訴訟においては、被告が平成元年二月八日になした本件判定が、前記一に述べたような趣旨でその裁量権の範囲を逸脱し、又は濫用したものであるといえるかどうかが争点であり、裁判所が衛生研究所の喫煙問題について、最も妥当な処置、対策を審究、選択して、これと本件判定とを対比して判断を加えるべきものではないことは前示のとおりである。そこで、右のような考えのもとになされたという本件判定に前記一に述べたような趣旨で裁量権の逸脱又は濫用があるかどうかについて判断する。
(一) 前示2のような社会一般の意識、通念と本件措置要求にかかる衛生研究所の状況等を総合すると、次のように考えられる。
なるほど、<証拠>によれば、原告が昭和六〇年一一月には鼻前庭炎、昭和六一年五月には急性鼻咽喉炎、昭和六二年四月には上気道炎、同年九月には両側性副鼻腔蓄膿症及び急性咽喉炎、昭和六三年三月には急性鼻咽喉炎、同年四月には気管支炎と診断され、この間相当回数にわたって耳鼻咽喉科で診療をうけていることが認められ、原告本人尋問の結果並びに弁論の全趣旨によれば、その原因がたばこの煙にあると原告が考えていること、少なくとも原告につきたばこの煙の多い場所での就業が不適当とされていることが認められる。そして、原告がいかにたばこの煙を嫌い、それに意識を集中してしまっているかは、本件措置要求における原告の「認否・反論書」の各記載によって、明瞭に看取することができる。もとより、原告のような嫌煙者にとって、分煙化が最も望ましい措置であるには違いない。そして、社会の趨勢は、喫煙をすることができるのは限られた空間とする方向に向かっているものと考えられ、公共の場では喫煙しないこともかなり一般化しつつあるマナーであると考えられる。しかしながら、これは、喫煙者を含めた社会の一般的意識、通念の変革に従って生じてきた変化であると解されるところ、前示のように、本件判定当時の我が国における職場での喫煙に対する対応の状況は、職場の構成員の自発的意思を重視した扱いが多く、その態度いかんにかかわりなく規制するというところまでいっている例は少なかったのであり、昭和六〇年五月二二日付けの判定、勧告及びこれに従った衛生研究所の措置は、社会一般の情勢と対比すると、当時としては、むしろ原告の考える方向に相当進んだ内容のものであったと評することができる。のみならず、衛生研究所は、個別的にも原告に対して、前示のような相当の配慮をしていたものであって、しかも、同所職員中の相当数の者がその趣旨に従い、原告からの日常的注意もあって、かなり、気をつけて配慮するようになっていることが認められるのである。原告は、衛生研究所の職員の中には配慮を欠く態度をとる者がいるとして、昭和六二年三月一一日付「認否・反論書」においては、原告のたばこの煙や臭気に対する日常的不快感等と並んで職員らの言動について逐一具体的に指摘、記載している(<証拠>)けれども、衛生研究所における喫煙者職員中には、原告の嫌煙の態度に反発を示す者ばかりではなく、前記判定、勧告に従った衛生研究所側の措置に伴って率先して自粛したり、また、原告からの注意、指摘を受けて喫煙を中止するなど自粛していることも認められるのであって、専ら前者に対する不満を強調し、完全にはたばこによる被害がなくならないとして、後者の存在を重視せず、性急に自己の理想とするところの実現を求めることは片面的であるとする考えもあり得るところである。なるほど、衛生研究所における現状のもとでも、「換気扇の下で喫煙し換気する」というような配慮(<証拠>)は望ましいことであろうが、こうした配慮については、本件判定当時衛生研究所が一層の努力をしていくと述べていたところである。前示のとおり、本件判定当時の衛生研究所の状況は環境調査結果によると事務所としては極く普通の状態にあり、また、原告の執務室の状況をみても、それは個室で、同室者が喫煙してこれに原告が悩まされるといった状況にはなく、また、衛生研究所において原告のほかに強く分煙化を主張している者もないことに照らすと、原告が被害として強調するところは、いささか特殊なものと解さざるを得ない。そして、衛生研究所の建物は、近々建替えが予定され、新庁舎は分煙化される計画となっており、本件判定当時に分煙化することが原告にとって望ましい勤務条件を実現するものであるとしても、建替え間近の衛生研究所の建物に相当の財政的支出を伴う分煙化工事を施すことについては社会一般の見解としてはかなりの異論を生ずることも十分考えられる。以上のような点を総合すると、本件判定に前記一記載のような趣旨での裁量権の逸脱又は濫用があるとは到底解することができない。
(二) また原告は、衛生研究所を分煙化することが東京都の職場全域の問題に拡大することも考慮したという被告の主張に対して、平成三年四月に東京都新宿区に移転する東京都庁の新庁舎は分煙化されるのであるから他の職場に問題が拡大することはないと主張するようであるが、東京都の職場は、本庁舎だけではなく、出先の各機関や事業所のあることは当裁判所に顕著な事実であり、被告の考慮した事情が前提を欠くものとはいえない。
(三) さらに原告は、東京都民の健康を守るという衛生研究所の職務の原点にたって考えれば、衛生研究所は健康管理について範を示し、他に率先して、分煙化を推進すべきであると主張するが、東京都に限ってみても、前示のように事務所としては極く普通の状況下にあった衛生研究所の職員の勤務条件のみを他の事業所職員のそれに先駆けて理想的な水準にまで直ちにおし進めることが相当であるかどうかには、広く社会一般の多様な見解をも前提とすれば、異論もあり得るところであって、衛生研究所の職責という観点に聴くべき点が含まれているとしても、それだからといって、直ちに、衛生研究所においては喫煙者のみが使用する喫煙室を設置する義務があるとまではいえない。
(四) 原告は、原告が微生物部細菌第一科腸内細菌室に異動後しばらくしての時期以降に同室者や関係職員らから人間性を傷つけられるような暴言を受けたりしていると不満を述べており、これについては、<証拠>によれば、なるほど、原告のいうような不穏当な発言があったことも窺われる。原告としては、個別の所員中の配慮を欠く態度を強調して、それらが専ら衛生研究所が分煙化されていないことに起因するもので、原告の執務に影響し、経済的な意味でも勤務条件を低下させていると主張したいのかもしれないが、前示のとおり、職員中には、前記判定、勧告に従った衛生研究所側の措置に伴って率先して自粛したり、また、原告からの注意によって自粛した者もあるのであって、原告の嫌煙の態度に反発を示して穏当を欠く発言をする者が一部にあったとしても、全体としては、衛生研究所による前記の措置とその後の原告自身の態度(本件措置要求をしたことを含む。)とがあいまって、前回判定、勧告の趣旨が次第に実現されてきているものと認められる以上、被告が本件判定に際して、なお衛生研究所の努力の様子をみるのが相当と判断したことに裁量権の範囲の逸脱又は濫用があるとまではいえない。
(五) 原告は、実効性のある完全分煙にどれほどの財政的支出が必要なのかが本件判定には示されていないと主張するが、原告主張のような完全分煙化に一定の財政的支出を要することは自明のことであり、しかも、被告が原告主張のような完全分煙化を時期尚早と判断した根拠は被告主張のような総合的判断であるから、本件判定中に予想される支出額が明示されていないからといって、本件判定が違法であるとはいえない。
(六) その他、原告の種々の言い分を検討してみても、要求事項(1)アの判断につき裁量権逸脱又は濫用というべき点を見いだすことはできない。
なお、前回の判定、本件措置要求、本件訴訟という経過を通じて、衛生研究所内の喫煙問題が次第に改善されてきていることは、遅速の評価の差はあるにせよ、原告自身自認するところであり、むしろ、原告は、そうした手続の節目節目に自粛が強まるということ自体がかえって問題だとして、それゆえにこそ、衛生研究所職員に対する強力な禁煙教育をしない限り、これまでの経験から元に戻るおそれがあるというのであるが、こうした衛生研究所の実情は、被告が主張するように、なお暫く衛生研究所の努力の成果をみるのが妥当だと判断する有力な根拠の一つとなり得るものであり、原告主張のように実社会の俗習を一気に否定してかかろうとする言論上の理想主義ともいうべき見解が社会一般に通用しているものとは解されない。
4 本件判定が要求事項(1)イを認められないとした点について判断する。
(一) 原告は異動後の執務室につき次のような不満があるという。すなわち、控え室とされた六一七号室については、「所属が庶務課のもので、部屋と廊下の間に作られた検体受付用の部屋で、廊下側一方向に受付用の窓と入り口の扉がある部屋で、これまで控え室として作られたとは聞いたことがないし、庶務の机も置かれている」、「前の部屋は喫煙者である科長の部屋で、たばこ臭が右受付室まで入ってくることがある」といい、実験室である五一九号室については、「当科の人達がルーチンで使用する部屋とはまったく別の半地下にある」、両室ともに「換気が悪く、陰湿」である(<証拠>)、「仕事上も不利な場所、連絡に対しても不便極まりない場所」である(<証拠>)、「眼を休めたり、日照で時の移りを、あるいは季節の変わりを知ったりは、窓がないため一切できず、ストレスとなっている」(<証拠>)のが不満であるというのであり、五一九号室の換気の悪いことについては、「昭和六二年七月二四日午後、原告の実験中に、食品細菌での過熱によりワックス様臭気が発生して同室に入り込み、中々排気されなかったことがあり、これは危険ですらある、従来職員を配置していなかった部屋であるため安全性の点検が不備である」(<証拠>)というのである。
(二) しかしながら、原告の要求事項(1)イの要求も、原告の主張全体の趣旨からすると、完全分煙化と不可分一体のものとして主張されているもので、換気設備の個別的改善などを求めているものではないと解され、さらに、執務室の単なる変更を要求しているものとも解し得ない。昭和六二年八月ころから九月ころにかけての控え室の五〇一号室への移動の提案とその拒否の経緯をみても、当面の原告の言い分に基づき実験室と控え室との距離が近ければどうかというような対症的な衛生研究所側の対応に対して、原告は、姿勢が安易であると批判し、他の職員の執務室もそれほど恵まれてはいないという庶務課長の言に対して次元が違うと答えるなど、結局は、喫煙問題について、原告の主張するような抜本的解決策がとられない限り不可であるとする意向が強かったものと考えざるを得ない。こうした考え方は、本件措置要求手続中の原告の主張の中にも多々表れており、当面の課題に関して対処していこうとする衛生研究所側の対応策について、「窓がないと言えば窓があればどこでもよしとする解決策」であるとして批判したり(<証拠>)、また、衛生研究所長の意見書中に、原告に提供し得べき他の執務室の存否につき、他の職員との公平を損なわないような部屋があり得るならば原告の方から指摘してほしい旨の記載があったのに対して、原告は、「喫煙者こそ一か所に集めて控え室を共同で使用させ、業務は各自担当の部屋へ行って行うようにすれば、原告に提供し得る部屋はいくつでも現れる」はずである旨主張したり(<証拠>)、「喫煙の害を受け易い人、その他職員が、確固として健康を喫煙により害されずに、安心して勤務できるよう、分煙となることのみが最善の方法である。」と主張したりしていた(<証拠>)ものであり、要するに、あくまで完全分煙化した喫煙室の設置を前提として要求事項(1)イを加えているものと解されるのである。なお、右のような考え方は本件訴訟においても基本的に変わらず、本人尋問においても、「環境調査の結果によっても、どの部屋の換気状態も、喫煙をしなければすべて吹き出し口に近いくらい良好なのだから、換気扇を増設したりするのは無駄な費用の支出であり、たばこを今のように吸わせているというのがおかしいので、分煙化するべきだと主張しているのである」旨主張しているところである。
(三) このように、原告は、要求事項(1)イにおいて執務室の単なる変更を要求していたものとは解し得ず、あくまで要求事項(1)アの要求がいれられることを前提としてこれと一体のものとしてこの要求を掲げていたものと解されるから、その意味では、要求事項(1)アを認められないとした判定に違法のない以上、要求事項(1)イの要求は前提を欠くことになるから、その適否は論ずるまでもないことになるが、なお、念のため、原告がこれを独立したものとして要求する趣旨であったとした場合についての判断を付加しておく。
すなわち、仮に、原告が要求事項(1)イを独立のものとして要求し、分煙化のいかんにかかわらず執務室の変更を要求していたものであったとして考えてみるに、一方、右(二)のような一貫した原告の主張態度に加えて、換気設備からのたばこ臭等をも指摘するところからみると、原告の要求していた執務室の水準はかなり高いものと考えられ、衛生研究所において代替の部屋の存否をさらに検討し、これを原告に提供してみても、原告がたやすくこれに応ずるものとは考えられなかったところである。原告は、原告の執務場所となっている六一七号室、五一九号室の両室には外気に開放し得る窓がなく換気が悪いと主張するが、事務所衛生基準規則三条一項が前記のとおり「室においては、窓その他の開口部の直接外気に向って開放することができる部分の面積が常時床面積の二〇分の一以上になるようにしなければならない。ただし、換気が十分に行われる性能を有する設備を設けたときは、この限りでない。」と定めている趣旨は、同規則制定当時、一般の建築物においては、窓その他の開口部による外気との自然換気が可能であるという実情が存することに鑑みて、原則として有効な換気窓その他の開口部を設置するよう事業者に義務づけるとともに、自然換気と人工換気のいかんを問わず、一酸化炭素及び炭酸ガスにつき抑制濃度を定めたものであり、したがって、自然換気の場合に、窓その他の開口部の直接外気に向って解放することができる部分の面積が床面積の二〇分の一以上になっていても、一酸化炭素及び炭酸ガスの気中濃度が抑制濃度を超えるときは、これを基準内に抑制し得る人工換気措置が必要となるが、他面、一酸化炭素及び炭酸ガスの気中濃度を抑制値内とする人工換気措置がとられているときは、窓その他の開口部の直接外気に向って開放することができる部分の面積につき規制は及ばないものと解すべきであるから、原告の執務室について勤務環境として違法な状態にあるというべきことはできないのみならず、前記のとおり、六一七号室の吹き出し口を閉じたのは原告自身であるというのであり、また、五一九号室のエアコンディショナーの使用をやめたというものも原告自身でしたことであって、換気設備の効用を利用していないことは、原告自らの選択によるものであるといわざるを得ない。他方、本件判定当時衛生研究所内には使用されていない室はなく、各研究室、控え室は狭隘であり、廊下に備品等が置かれているような状態で、室数が不足している状態にあり、原告のいうように喫煙者職員らを一定の控え室に集中させてしまうというのであれば別論、職員間の待遇と執務の便宜の均衡を維持しつつ、より以上の条件の部屋を原告に提供することは狭隘な衛生研究所内では不可能であった(<証拠>)。したがって、さらに、その余の原告の言い分を考慮してみても、被告が、本件判定において、主任研究員(係長級)以下の原告と同等の地位にある職員は相部屋に入っていること、原告の執務室は例外的に個室であって同室者の喫煙に悩まされる恐れはないこと、それ以上の条件の部屋を原告に提供することは狭隘な衛生研究所内では不可能であること、換気装置を含め相応の設備を備えていることなどを考慮すれば、原告の執務室は、他の職員が日常使用している執務室と実質的に同等なものと評価できると判断して、本件要求事項(1)イについてこれを認められないとしたことに裁量権の逸脱、濫用の廉があるとはいえず、これをもって違法ということはできない。
5 本件判定が要求事項(2)をいずれも取り上げられないとした点について判断する。
地方公務員法(昭和二五年法律第二六一号)八条七項及び四八条の規定に基づいて制定されている「勤務条件に関する行政措置要求の審査に関する規則」(昭和三九年東京都人事委員会規則第一二号・<証拠>。以下「審査規則」という。)三条、四条によれば、申請者は、要求事項を要求書に特定して記載して人事委員会に提出すべきことが定められているところ、本件措置要求事項(2)については、本件措置要求手続中における原告の主張全体を総合してみても、原告が被告に対して、いかなる判定を求めるものであるのかを特定することができない。
すなわち、
(一) 原告は、昭和六一年一二月一二日付け認否・反論書(<証拠>)において、本件措置要求の要求事項について前記のように整理し、以来、この要求事項を維持していたものである。しかして、その理由として原告が述べたところを順次みると、まず、同書面では、本件要求事項(2)ア、イの要求の理由は、「これまで喫煙問題について苦情を述べたり、措置要求をしたりすると、自分の意見も聞かずに、自分の能力、経験を無視して、一方的に異動させられてきた。このような不利益を被ったのは、喫煙問題が関係している場合はいかなる場合も、業務や人間関係に対する評価・判断が一方的になされない体制が不備であったためである」というのである(もっとも、<証拠>の「理由2」において、「現所属〔細菌第一研究科〕では、職務遂行において著しい不当・不利益は与えられていないが、昭和五八年九月に初めて措置要求をした後、所側及び乳肉衛生研究科の私に対して行った度重なる異動命令〔一年四か月に三度異動命令が出された〕は、名目上は喫煙問題を理由にしていないが、能力・経験を無視したもので、人事委へ不利益処分に対する不服申立を行い争うまでに至ったのでした。」と述べており、かつての不利益を述べると同時に現在の著しい不利益を否定している。)。そして、<証拠>で「たばこの害のみならず、仕事に対し不利益な状態にさせられない、との保証は一切ない。」と述べ、<証拠>では、要求事項(2)の趣旨が明らかでないとの衛生研究所長の意見に対して、喫煙による原告の被害を述べて「よって、たばこの問題が加わっている場合は、いかなる場合も業務や人間関係に対する判断が一方的に行われることのない管理・指導体制が必要である。」と主張している。さらに、その後の主張の中でも、たとえば、<証拠>において、昭和六二年八月から九月にかけての五〇一号室への移動の提案に関して、「所側は、これまでに他の職員が配置され控え室・実験室としたことのない部屋を乳肉研究科でのICP室に始まり私に押しつけてきた。部屋を転々とささいな理由を独断でつけて移動させ、少しずつ健康を害するやり方は人道上許されるものであるか。」と述べ、<証拠>において、生活科学部乳肉衛生研究科食肉魚介細菌担当後の状況につき、「これまで居室として使われたこともない、温度調節等が機器用である、他の職員が決して与えられることのない機器室に入れられ、コンピューターのプログラムを行う、という職種でない業務を命ぜられ、研究職として、衛生検査職種としての経験・能力等、まったく無視された。さらにワープロ室へ異動させ、満足な業務もなされず、甚大な精神的苦痛を与え続けた。」と述べた。そして、衛生研究所長の昭和六二年一二月二一日付け意見書に、「申請者が要求している事項を要約すれば、第一に、換気系統のまったく別な喫煙室を設置すること、第二に、喫煙室が設置されるまで、申請者に対して喫煙による被害を受けないような部屋を提供することの二点である。」と記載されていたことに対して、<証拠>において、要求事項は右二点のほかに前記二点があるとして、「異動に関して、組織がまったく機能しないで、命令を下すことのみに熱中した組織でしかなかった実態の中で、喫煙の被害を受け続けてきたことから、人事委員会において、組織機能が有機的に運営し得るため、あるいは有効に機能させ得るための歯止めとなり、職員の基本的権利の行使で不利な扱いを受けさせられないために、要求項目に入れたもの」であるなどと主張した(なお、同所には、嫌煙者一般について喫煙に対する苦情等で異動させられているかのような記載があるが、これを認めるに足りる証拠はない。)。
(二) これらの主張は、原告に対するかつての異動や執務室の移動に関する取り扱い、提案等が不当に原告に不利益であり、また、担当職務の変更が執務室を移動させることに伴って行われたものであるなどとして、これに対する不満として述べられていることは明らかであるけれども、原告の右のような不満を逐一検討してみても、それによって右要求事項そのものの内容が具体化されているとは到底解し得ない。
右不満の趣旨からすると、要求事項(2)アは、原告が喫煙の被害を訴えるなどして異動又は執務場所の移動をすることになった場合を想定しての条件、待遇についての要望のようにもみえ、また、(2)イの要求と併せて、「たばこの害のみならず、仕事に対し不利益な状態にさせられないとの保証」を与えてほしい、あるいは、「喫煙問題が関係している場合はいかなる場合も、業務や人間関係に対する評価・判断が一方的になされない体制」、「たばこの問題が加わっている場合は、いかなる場合も業務や人間関係に対する判断が一方的に行われることのない管理・指導体制」をつくってほしいとの希望のようにもみえるが、そのために被告に対していかなる判定をするよう要求しているのかは、結局、判然としない。また、要求事項(2)イは、措置要求をしていることによって、異動、担当職務について不利益を課せられてきたという主張を前提として、条例又は規則によって何らかの予防的対策をたててほしいという希望のようにみえるが、職員の措置要求の申し出を故意に妨げることは罰則をもって禁ぜられていることであり(地方公務員法六一条五号)、措置要求を妨害するために措置要求をしていることに基づいて異動を命じたりすることがあれば、それが違法であることはもちろんであって、原告がこうした法律上当然の規範以上に具体的にいかなる規定を設ける判定をすることを被告に求めているのかは、主張の上から明らかでない。この要求事項も特定されていないというほかはない。
(三) 前示のとおり、人事委員会は、広範な裁量権行使の一方法として、当該要求者の趣旨に副った要求事項そのものとは異なる何らかの措置を相当と判断するときは、その旨の判定、勧告をなし得るものと解され、審査規則一〇条三項が斡旋勧試の権限を明示しているのも、かかる裁量権行使のあり方に基づくものと考えられるのであるが、他面、それは正に当該人事委員会の裁量権の範囲内の問題であって、要求者主張の中から、一定の要求が明らかに看取され、これを取り上げてしかるべき対応をすることが容易であるのに敢えてこれを無視するなどの特段の事情のない限り、積極的に要求者の内心の意向をくみ取って勤務条件の改善策をあれこれ案出しなければならない義務を負うものとはいえない。したがって、本件において、原告が完全分煙化の措置要求がいれられないと知ったとき、次善の策として求めるかもしれない要求が何かについてまで審按することが措置要求の手続として要求されるものではないというべきである。前記のとおり、措置要求制度の本質が斡旋、仲介にあたる作用であることに照らせば、厳格な手続によって対立当事者間の法律関係の確定による紛争の終局的解決を目的とする訴訟手続とは異なり、措置要求の審査、判断については一事不再理の原則が働く余地はないことが明らかであるから、要求事項が過大な要求であるとして措置要求を棄却された要求者が、仮に、同一性のある要求事項をもって再度要求をすることも、法理上は直ちに不適法な措置要求であるとはいえないのであり、前要求の棄却判定後これと同一の要求を直ちに提出しても特段の事情の変化のない限り再び棄却されるであろうことが通常予想されるとしても、それは事実上のことにすぎず、また、要求者としては、同一の利害関係に関して当該判定の中に示された人事委員会の考え方に従って、より穏当な類似の要求事項を掲げて再度措置要求することはもとより可能であると解されるので、要求者としては弾力的な考えを有する限り、右のような対応によって、場合によっては自己に比較的有利な勤務条件を獲得し得ることもあり得るわけであるから、要求事項の特定にある程度の厳密さを要求しても、職員の不満解消のための簡易な救済制度たる趣旨に反することにはならない。
(四) なお、原告は、要求事項(2)アに関し、他の職員が昇給しているのに、喫煙規制に関する措置要求を続けている原告が昇給しないのは不当であり、原告が昇給しない理由を明らかにしないまま要求を却下することは不当であると主張する。その趣旨は明確を欠くが、本件では、昇給が要求事項とされているわけではなく、被告が本件判定において原告の昇給しない理由を明らかにする義務を負うものではないことはいうまでもない。
したがって、本件判定が要求事項(2)ア、イのいずれをも取り上げることができないとしたことに違法はない。
6 原告が本件措置要求についての審査手続が違法であるとして主張するその余の点について判断する。
(一) 原告は、喫煙室の設置が物理的に困難であるかどうかに関して、衛生研究所側と原告との間で、喫煙室の規模を具体的に想定した上で予算の見積りをするとどうなるかが争点になったことはないと主張するが、そもそも、措置要求制度は行政監督的作用の一つであり、判定、勧告は斡旋、仲介の性質を有するものであるから、判定の基礎となる資料の収集手続は人事委員会の職権のもとに行われることが当然であって、法律上も当事者主義的な手続は予定されていないものというべきであり、被告における措置要求の審査手続等に関する審査規則中にも原告の右主張のような手続を要求する規定はない。したがって、本件判定の審査手続に原告の主張の違法はない。
(二) 原告は、本人尋問において、「被告の事実調査によると、衛生研究所側は、所長通知及び所長決定の趣旨を遵守するように徹底しているというが、たとえ科長会でその遵守を指示しても、科長自身が科に戻って所属職員にその趣旨を徹底しない限り、現実には職員の態度は徹底されたものとはならないし、実際に守らない職員がいるのであって、こうした現場の状況をどのように確認しているのかも不明のまま、判定をするのはおかしい」旨述べるのであるが、審査手続についても法律又は規則の範囲内で被告の裁量に委ねられているものと解すべきであって、条理上もそこまでの調査をしなければ、審査手続として著しく妥当を欠くものとはいえないから、この点をもって違法事由となるものと解することはできない。
(三) 他にも、審査規則に照らして、本件各証拠によって認められる本件審査手続、経過を検討しても、その中に違法というべき点は見いだすことができない。
三以上のとおりであるから、原告の請求は失当である。
(裁判官松本光一郎)
別紙(一)判定
申請者 東京都立衛生研究所
主事 庭山邦子
当委員会は、申請者が昭和六一年七月一一日付(当委員会受付同月一二日)でなした勤務条件に関する行政措置の要求について、次のとおり判定する。
主文
要求事項(1)、ア及びイは、いずれも認めることができない。
要求事項(2)、ア及びイは、いずれも取り上げることができない。
理由<証拠>
別紙一(所長通知)
六〇衛研庶第三三六号
昭和六〇年六月二一日
殿
東京都立衛生研究所長
所内における喫煙について
このことについては、従前から必要な措置を講じてきたところであるが、先の人事委員会勧告の趣旨に従い、改めて下記のとおり措置することとしたので所属職員に周知徹底を図るとともに、その遵守に努められたい。
なお、あわせて職員間の意思の疎通と理解の促進について特段の配慮をされたい。
記
一 喫煙をする者は、喫煙が健康に及ぼす影響について十分認識し、喫煙しない者に配慮をすること。
二 次の場所は禁煙とし、その旨を表示する。
(1) 研究室(控室又は準備室を備えたもので、当該控室又は準備室を除いた部分に限る。)、図書閲覧室、洗面所、エレベーター内及び廊下。
(2) 危険物倉庫、一般倉庫、空調・電気等の機械室、機器分析室、ロッカー室、動物室その他防火管理上及び危害防止上禁煙とする必要のある場所。
(3) 各科(課)での申し合せにより禁煙とした当該科(課)内の場所。
三 会議室、ゼミナール室等での会議、打合せ等における喫煙は自粛すること。
四 喫煙する者が、禁煙とされない場所で喫煙する場合は、喫煙しない者に十分配慮をし、常に換気に心掛けるとともに喫煙のマナーを遵守すること。
別紙二 (所長決定)
昭和六〇年六月二一日
「所内における喫煙について」の運用等について
「所内における喫煙について」(昭和六〇年六月二一日付六〇衛研庶第三三六号所長通知。以下「通知」という。)の運用等にあたっては、下記事項に留意し、その適切な施行を図る。
記
一 当所職員以外の者については、この通知の内容の遵守について理解と協力を求めるものとする。
二 通知の記二の(3)に基づき、各科(課)での申し合せにより禁煙をする場所は別表のとおりである。
三 上記二の場所のうち将来変更の必要が生じたばあいには、その時点で改めて関係者間で話し合いをするものとする。
四 各科(課)での申し合せにより、当該科(課)内における喫煙方法等を定めた場合はその申し合せによる。
五 所内共用部分のうち一号館一階ロビー、その他吸殻入を設置してある場所付近においては喫煙できるものとする。
別表、別紙三、別紙四<省略>
別紙(二)判定
申請者 東京都立衛生研究所
主事 庭山邦子
当委員会は、申請者が昭和五八年九月二九日付でなした勤務条件に関する行政措置の要求について、次のとおり判定する。
主文
一 東京都立衛生研究所長によって次の各措置が執られることが必要であると認める。
(1) 東京都立衛生研究所の事務室において浮遊粉じん量並びに一酸化炭素及び炭酸ガスの含有率が事務所衛生基準規則(昭和四七年労働省令第四三号)第五条第一項の規定に適合しない場合には、換気を強化するなどして、この規定に適合するよう措置すること。
また、同研究所の研究室においてもこれに準ずること。
(2) 同研究所の研究室(控室又は準備室を備えたもので、当該控室又は準備室を除いた部分に限る。(3)において同じ。)及び図書閲覧室は、禁煙とするよう措置すること。
(3) 同研究所の研究室、図書閲覧室、洗面所、エレベーター内、廊下、その他禁煙と定められている室については、禁煙である旨をステッカー等で明示するなどして、禁煙が遵守されるよう措置すること。
(4) 喫煙をする職員が禁煙とされていない室で喫煙をしない職員と同席する場合は、喫煙が健康に及ぼす影響について十分認識し、喫煙をしない職員に配慮するように、職員の自覚を促す措置を執ること。
二 その余の措置を求める要求は、これを認めることができない。
理由
第一 要求事項
申請者の所属する東京都立衛生研究所(以下「衛生研究所」という。)において、喫煙によって周囲の人が健康被害を受けぬよう、次の各措置を執り、その執務環境の改善を図ることを求める。
一 嫌煙者が在席する事務室及び研究室では、勤務時間中禁煙とすること。休憩時間及び休息時間における喫煙は、定められた場所で行うこと。
二 図書室、洗面所、エレベーター内及び廊下は禁煙とすること。また、食事をする場所では、換気扇の傍を喫煙席とし、その他の箇所では、禁煙とすること。
三 嫌煙者の加わる公的なミーティング等の場合には、換気の良好なときを除き、原則として禁煙とすること。
四 上記以外の場所においても、喫煙する場合には、換気に注意すること。
五 半年毎に上記一ないし四の実態を調査し、これらの事項が実行されず、トラブルが生じている場合には、喫煙室を設置すること。
第二 要求の具体的事由<以下省略>